文化祭で語られた「十余二」の歴史について、試料が出てきたので転載。

1.江戸時代
?高田台牧の広がり
江戸時代、下総台地には「小金牧」と呼ばれる徳川幕府の広大な牧場が広がっていました。
小金牧は
・高田台牧・上野牧・中野牧・下野牧・印西牧
に分かれ西原地区周辺は高田台牧の範囲内でした。
?牧の経営
幕府は野馬奉行や牧士(もくし)の制度を設け、牧場の管理運営を行っていました。柏市では花野井村吉田家、松ヶ崎村吉野家、名戸ヶ谷村木村家が牧士役を務めていました。牧で成育した馬は年に一度(高田台牧では10月中旬〜11月上旬頃)捕獲され、駿馬は幕府用とし駄馬は村々に払い下げられました。
?将軍の鹿狩り(ししがり)
江戸時代、小金牧では将軍の狩(鹿狩り)が4回行われました。牧内に繁殖している鹿や猪、兎等を駆除する目的もありましたが、大勢の人間を動員する軍事演習としての性格もあり、裏方であった農民達の負担は大きなものがありました。

2.近代の歩み
?明治維新と小金牧開墾
幕府の崩壊による江戸の窮民対策として、小金牧は開墾され十余二地区が成立します。これを指揮したのは東京府判事であった北島秀朝です。当時の東京の人口は50万人といわれていますが、このうち10万人が突然窮民となりました。窮民の惨状に心を痛めた北島は、牧の開墾によって人々の救済を目指したのです。
・初富→二和→三咲→豊四季→五香→六実→七栄→八街→九美上→十倉→十余一→十余二→十余三
といった開拓する時に開拓した順番に数字を振り、そこに縁起の良い文字をつけたのも彼が名づけたものと言われています。

?十余二の成立
明治2年6月に開墾のための会社が設立され、明治4年2月入植を開始、西原地区は東京からの窮民6300人が入植したと伝えられ、十余二村周辺の柏の住人ら開拓したので十余二村の一部となりのちに柏市となりました。

?市岡晋一郎
小金牧開墾に重要な役割を果したのは三井組の市岡晋一郎です。彼は岩倉具視に見出された農民出身の現場監督官であり、開墾地の管理人として農業(製茶・さとうきび・養蚕)を振興し、また貧しい農民のために三井学校(伊勢原学校)を開校し、伊勢原に皇大神社を建設しました。
しかし半面で彼の厳しい性格は農民たちとの土地論争をより激しいものとしていきます。

?開墾地十余二の生活
開墾地の生活は厳しく、
(=例えば3年間無利子で1人に5反の土地を貸し与え、10年間で返済すれば一人前として認めるなど)
また台風などの被害や伝染病などで大勢の人々が逃亡していきました。
開墾会社も明治5年5月に解散してしまい、開墾した719町のうち714町を三井が取るといった結果になってしまったようです。
(厳しい生活と開墾の結果に耐えかねた石塚与平が十余二村の農民を糾合し裁判闘争に明け暮れますが全て敗れます。三井も大隈重信・青木周三らの名義に換え農民にとって勝ち目のない闘争であったと伝えられています。)

?軍事基地の広がりと柏の葉公園
昭和に入り、戦争の足音が聞こえてくると、陸軍は畠の広がる下総台地に目をつけ、飛行場の整備を始めました。
柏(田中)・藤ヶ谷・松戸などに次々と飛行場が建設されていきます。
なかでも、田中飛行場周辺は高射砲連隊・航空教育隊などが配備され帝都防衛の東の拠点となりました。
この飛行場周辺が現在の柏の葉公園となっています。

3.西原地区の成立
現在の東武野田線は、明治44年千葉県営軽便鉄道野田線として、柏〜野田町(現・野田市)間に開業され(大正12年千葉県営軽便鉄道野田線を北総鉄道に譲渡、昭和4年総武鉄道に改称、昭和19年東武鉄道に吸収される)、後に清水公園駅まで延伸、粕壁(後の春日部)〜大宮の鉄道線とつながり現在の形に至ります。

西原地域は昭和33年、東武鉄道野田線の初石-運河駅間に江戸川台駅が新設され、開発されていくことになります。
西原という町名は、昭和64年1月1日住居表示変更により成立します。

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